檜原村には歴史的なものが多く残っていると言われます。
歴史的とは何かというと、「古い昔から伝わっている」ということで、それが生まれた当時の様子や意味が伺い知れるものです。
歴史を知ることで、過去の社会や檜原村がどのような仕組みで動いていたか、どのような経験を乗り越えてきたかを理解し、教訓を活かし、現在をより良くするための知恵を見つけることができると思います。
今回のコラムでは、「檜原村エコツーリズム全体構想」を参考に、役場のある本宿地区を歩いて歴史探訪をするときのヒントとしてまとめてみます。
長くなるので2つに分けました。後編はこちらです。
前編では口留番所と岩船地蔵尊を紹介します。
口留番所
橘橋東側に、江戸幕府が全国の主要な街道に設置した「番所」の跡があります。
徳川三代将軍家光の上洛をきっかけに設置され、元和 9 年(1623)から慶応 3 年(1867)まで番所は存続していました。
江戸幕府とは、徳川氏が全国統治をした時代の武家政権です。慶長8年(1603)から慶応3年(1867)の大政奉還に至るまで265年間続きました
番所は交通の要所に設けられており、番人が詰めて通行人や船舶を見張り、税の徴収や積み荷の検査などを行った場所です。
檜原村の口留番所は、上元郷駐在所の裏あたりに番小屋があり、木戸はその前へ道路をまたぎ構築されていました。
ここは村の入り口にあたる場所で、「江戸から甲州」(五日市方面と檜原の奥地)をつなぐ交通上の要衝地であり、その地形から「人間の喉元に当たるような大切な所」という意味で「口留めの番所」と呼ばれていました。
当時の番所は残っていませんが、現在は檜原村庁舎の西側道路際(番所跡のすぐ近く)に番所の門が当時の木戸を模して復元されています。
岩船地蔵尊
岩舟地蔵尊は、檜原城落城のおよそ 30 年前の永禄 4 年(1561)に平山氏重の妹(鶴壽姫)が、藤橋城(青梅市)の城主平山光義(上杉方)に嫁いだときに、近くの寺院へ寄進したものです。
落城とは、敵に城を攻め落とされることです。
平山氏は、武蔵七党と呼ばれた武士団のうち西党の一族です。武蔵七党とは、平安時代後期から鎌倉時代、室町時代にかけて武蔵国に存在した七つの同族的武士団の総称です。
北条氏は、鎌倉幕府の時代に力を伸ばし、政治の実権を握るようになったのが北条家です。事実上の最高責任者「執権」の座を独占しました。
2 年後の永禄 6 年(1563)に北条方の攻撃を受けて藤橋城は落城。鶴壽姫は落城の前に檜原へ帰され、寺ではこの地蔵尊を檜原へ送り返しました。光義は北条方に拉致されますが、やがて許されて下総方面 で帰農し、鶴壽姫も永禄 7 年(1564)に光義のあとを追って下総へ行き、子供(光高)を産んで幸せに暮らしたといわれています。
現在は橘橋の東詰に地蔵堂があり、岩舟地蔵尊を覗き見ることができます。
以上、役場からすぐ近くにある本宿の歴史探訪スポット2箇所「口留番所」と「岩船地蔵尊」でした。
次のコラムでは、橘橋と檜原城跡を紹介します。