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令和ルネサンス、孤高の塔「銀座亜紀枝刺子館」

ライター:淺倉拓馬(TreenessLife089)

檜原村の南郷という集落の、ある森の奥へと繋がる道。少し坂を上ると、なんとも壮観な総ケヤキの古民家、銀座亜紀枝刺子館がある。

刺し子作家である銀座亜紀枝さんがこれまでに手掛けてきた、手縫いの刺し子作品の数々が展示されている。刺し子は東北地方で衣服の補強や保温性を高めるために発達した技術であり、生活の知恵である。

こだわりの本藍染めや本草木染めが施された木綿の生地や糸、刺し針などの刺し子道具や、独自で制作され、現在に至っても刺し子教室で活用されている教本も購入することができる。

玄関先では亜紀枝さんの美徳が詰まった、檜原村に生息するモリアオガエルのモニュメントがお出迎えしてくれる。

日本の刺し子技術と文化を代表する亜紀枝さんは、創業から現在に至るまで、息子の坂本大策さんと二人三脚で「銀座亜紀枝刺子館」の歴史を創り上げてきた。

「もめんの女」はこんな私

きらりと目を輝かせながら、91年の年輪を重ねた亜紀枝さんは過去の経験と思い出を、立て板に水のごとく話してくださった。

愛媛県西宇和郡で生まれ育った亜紀枝さんは、小学生にして木綿の着物を2着も製作した。手芸が好きで、高校生の時まで家政科で習っていた。25歳のときに大学院をやめ、当時は100人くらいしかいなかった自然食の研究センターに1年間通った。日本では玄米食が走りであり、後に「自然食」という言葉として認知されるようになった。

亜紀枝さんは、かつて「民藝の父」と呼ばれていた柳宗悦(そうえつ)氏や、自然食を世界に広めた桜沢如一(じょいち)氏らから直接その思想を学ぶことで、生きる道を決めたそうだ。

以来、自然食を広めていくことになり、骨董市で木綿の古布を集めることが趣味であったため「むぎめし茶屋」と自作の洋服を販売する「もめんの店」を同時に営んだ。

その頃、種田山頭火の俳句に感銘を受けた亜紀枝さんは自由律俳句を学び、『句集もめん』や『もめんの女』など3冊の俳句集を出版した。その句集の中には、木綿の着物を着てアメリカ中を歩き回るという情景も描かれている。自然食をはじめ、俳人としても「もめんの女」として世に知れ渡っていった。

女山頭火は娘遍路の青春時代

哲学者になる夢を抱き、東京の大学へ来たが、英語が苦手で授業についていけなかった。女子美大に編入した亜紀枝さんは染物や織物を学んだ。またその頃、托鉢をしながら、3か月かけてお遍路四国88か所参りを行なった。

亜紀枝「貧しかったが、心だけは豊かだった、心だけは貴族だった。」

托鉢をしながらお遍路参りをした経験は、彼女の強さを創った時期であり、後に、種田山頭火の様な自由俳律句を描く彼女を創った時代でもあった。自由律俳句は季語や五七五の字数等の定型に従わない自由な表現の句のことをいう。

結婚・出産・離婚を経て、子から離れ独身の時に、青春時代を思い出して書かれた俳句集、それが『もめんの女』だ。

自身の内面と、淡々と生きる自然の情景を対比させて表現し、描かれている色香が読者の心に触れる。

亜紀枝「3冊の俳句集は、私がひとりの時に青春時代を思い出して書いた句なのよ。独身貴族の時にねぇ。」

一冊目の『句種もめん』を制作し、雑誌の広告に出したところ、1000冊が売れた。それを機に、「もめんの女」と共に「女山頭火」とも呼ばれるようになった。こうして自然食や俳人として自分の哲学を築き上げ、表現していくことになった。そしてそれが亜紀枝さんの未来に大きく影響していく。

刺子でトップを目指す!

自然食や俳人として草分けの存在となった亜紀枝さんだが、これだけでは終わらなかった。ご自身の俳句集がヒットし有名になった頃、離婚を経験してから6年後に、二人の子どもを引き取ることになった。「むぎめし茶屋」と「もめんの店」を経営していたが、子ども二人を育てていくにはそれ以上に稼ぎが必要。手芸が好きだった亜紀枝さんは、誰もやっていないことを究めてビジネスにしようと考えた。そんな中、身の回りの人たちは柔道着を刺してある刺し子くらいしか知らないことに気づき、もっと刺し子の可能性を世に広めたいと思い、宣伝に走り回った。間もなくすると、マスコミの取材が大変なくらい押し寄せてきた。

刺し子を始めた頃に、自然食普及団体から刺子の講習をして欲しいと依頼があった。最初はミシンで刺し子をしていたが、普及団体のうちの一人が「これを手で縫ったらどれだけ素晴らしいでしょうね」と言い、それが耳に残った。それ以降、針と糸だけで、手縫いにこだわって刺し子の制作を進めた。それだけでなく、本藍染めや本草木染め、木綿の素材にこだわりを持っている。

亜紀枝「藍染め、草木染めは全て100パーセント。化学染料はいっさい使わない。生地や糸は全て木綿を使ってきた。」

初めて赤坂で刺し子の個展を開いた際には、作品が完売したほどだ。それで自信が付いた亜紀枝さんは、銀座のウィークリーマンションを借りて刺子教室を始めた。

檜原村に刺子館を建ててから現在に至るまで、自社で設営した刺子館ツアーは7回ほどあり、コロナ禍に突入するまでは、外国人向けの観光バスツアーが年間通して10回ほど訪ねてきたとのことだ。アメリカだけではなく、イギリス、フランス、オーストラリアなど文明国のほとんどは銀座亜紀枝刺子館へのツアーを行っている。

令和3年には日本人向けの観光バスツアー関係者が各地から下見に来た。

こうして自然食と俳句に続いて、刺し子でも日本の草分けとなった。

“草分け3冠”を成しえた者が目指すもの

3か月に1回書き下ろしている刺し子の教本も、2021年10月に105巻にまで達し、ついに最終巻となった。

「刺し子も自然の原理の中の一つとして捉えている。」と、刺し子にも原理原則があると亜紀枝さんは主張する。最近出回っている色んな刺し子製品に物足りない表情を浮かべる。

「手芸で一番盛んなのはパッチワークなんですね。ただ伸び悩んでいて、その代わりに刺子が流行っている。ただし、あんまり深みの無い、簡略化された物が増えている。」

柳宗悦氏より受け継がれてきた言葉の中に「古きを守るも開発なり」という民芸を代表する名言がある。民衆的芸術を、「土の匂いがする庶民と共にある美である」とする亜紀枝さんは、刺し子の芸術を創り上げてきた元祖だ。刺し子の深さと民芸としての美を、引き続き新しい世代に継承してもらいたいのだ。実際に、最盛期の頃に出版した『刺し子の技法』という本を再版しようと試みているところでもある。

刺し子時代を創り上げた必勝の構え

刺し子を現代風な独自のデザインにアレンジしてきた亜紀枝さんにとって大策さんは、成功するために重要な役割を担った存在であった。

「大策と共に歩んできたのよ」と亜紀枝さん。

大策さんは高校生に上がる頃、就職しようか亜紀枝さんの会社を継ごうか迷っていた。しかし、刺し子で成功すると決意した亜紀枝さんの姿を見た大策さんは、「僕がやる!」と名乗り出た。

亜紀枝「この子と共に今があるんですよ。だからこの子は後継ぎではなくて、私と同時に始めたんです。」

大学で経営学科を卒業した大策さんが、大黒柱となって支えてくれる。

亜紀枝「私はどんどん前へ行くでしょ。この子は地固め役なのね、潰れないように、滅びないようにね。彼がいたから今、私はこうやって世に出られたの。手芸の世界ってね、本当に小さな小さな仕事でして、それを後押ししてくれるような人がいる作家はいないんですよ。」

亜紀枝さんの才能を現代社会と調和させるために、大策さんが経営を担ってきた。

現在、「手縫い仕立ての刺し子」という題で、関東から関西にかけて25教室を展開しており、100人程の生徒がいる。そして亜紀枝さんの孫弟子、曾孫弟子の方々がそれらの刺子教室を先導している。

大策「若い世代をこれからもっと増やしていきたい。そうでないと、手づくりの物が減ってきていますからね。そういえば、先日ウクライナの方が刺子教室に入りましたよ。」

と、今後は刺子教室と弟子の養成にもっと力を入れていくそうだ。

あと戻りはないという「必勝の構え」。覚悟を持って、必ず成しえなければいけないという決意を表す。刺し子を始めるにあたって必ずトップになり、和の心と芸術をリードしていくと誓った二つの覚悟だ。

つつましい日本の心を養う伝統文化と感性。亜紀枝さんと大策さんは日本を代表する刺し子文化をこれからも育てていきたいと思っている。

二人のやさしくて、はつらつとした笑みで描く未来地図は、きらめきながら幾筋もの川となり、木綿の生地を藍染の枯れて深みのある色に染めていった。

自分にとって今が一番若くて、一番太い幹。

明日はまた歳を重ねていく。

一番若い今日を大事にしたい。

銀座亜紀枝刺子館を訪れることがあれば、出会えるかも知れない。

「大地と自然、良い空気と一体で、とっても気持ちが良い」と亜紀枝さんは笑う。

 

銀座亜紀枝刺子館

定休日…水曜日、第1・3・5火曜日

 

取材・文/淺倉拓馬(TreenessLife089)

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