檜原村には歴史的なものが多く残っていると言われます。
歴史的とは何かというと、「古い昔から伝わっている」ということで、それが生まれた当時の様子や意味が伺い知れるものです。
歴史を知ることで、過去の社会や檜原村がどのような仕組みで動いていたか、どのような経験を乗り越えてきたかを理解し、教訓を活かし、現在をより良くするための知恵を見つけることができると思います。
今回のコラムでは、「檜原村エコツーリズム全体構想」を参考に、役場のある本宿地区を歩いて歴史探訪をするときのヒントとしてまとめてみます。
長くなるので2つに分けました。前編はこちらです。
後編では橘橋と檜原城跡を紹介します。
橘橋
最初の橘橋は、幕府の費用によって造られた橋で、当時は御普請(ごふしん)橋と呼ばれました。
御普請(ごふしん)橋とは江戸時代、幕府や藩が費用を負担して施工した土木工事のことです。
長さ十二間(21m 程)横幅八尺(2.4m)の大きな橋で、お上の橋として権威ある美しいものだったと伝えられています。
橋のあった位置は通行の要所であったため、番所と同様の幕府の直轄管理でした。
また、この地域が「橘」という地名で呼ばれていた歴史を残す橋でもあります。
日本古来の四大豪族の一つである橘氏(源氏・平氏・藤原氏)、に由来するものであり、檜原村には橘高安に関する伝説が各地に残されています。
現在も修理と架替えを重ね、残っています。
檜原城跡
檜原城跡は平成 3 年(1991)に「東京都指定史跡」に指定されました。
「都内に現存する中世城郭のうち、戦国初期の構造をよく残しており、歴史的及び学術的に価値が高く、指定保存する必要がある」として指定されました。
檜原城は南秋川と北秋川が合流する本宿に位置しており、吉祥寺の裏山を登った標高 約450 メートルの尾根上にありました。
戦国期の「後北条氏」時代後半に戦略上の理由からこの地に築かれ、利用されていたことが明らかとなっています。
後北条氏の支城として甲斐武田氏の侵攻に備えられ、また豊臣・徳川軍の関東侵攻に対しても機能していました。
しかし、天正18年(1590)に豊臣・徳川両軍による攻めのもと落城、城主であった平山伊賀守氏重親子は自刃し、以後廃城となってしまいました。
城の構造は、南北の尾根を階段状の曲輪からなり、曲輪は細い土橋で結ばれ、南に延びる尾根には数本の竪堀が設けられています。
いま檜原城址のある場所は「城山(しろやま)」とも呼んでいて、頂上までは吉祥寺の上の十三体の仏像が安置されている山を登ります。
登っている間は、正直なところお城があった名残を感じるのは難しいです。
頂上には少し平な空間があります。
また、檜原村の入口(役場方面)を見下ろすことができ、攻められにくく守りやすい場所として選ばれたこと、山の地形を活かして建てられたことが感じられます。
以上、役場からすぐ近くにある本宿の歴史探訪スポット2箇所「橘橋」と「檜原城跡」でした。