「檜原」なんと読む?
檜原村、初めて見たとき、読めましたか?檜はヒノキ、原はハラ、複雑な読み方をしているわけではありませんが、ヒノキバラ、ヒノキハラ、ヒバラ、ヒノバラ、など、檜原村を知らない人は読み方を迷われることもあります。
日本各地の「檜原」と書く地名は、山深い地形のところにいくつかあります。ですが、九州耶馬渓では「ヒバル」、愛知県・長野県・福島県・山形県などでは「ヒバラ」と読んでいます。「ヒノハラ」と発音するのはこの村だけなのです。
お隣の奥多摩町はシンプルに地理を表しているような地名で、わかりやすいですね。別の方角のお隣には日の出町がありますが、「ヒノ」という最初の二文字が同じなので、ときどき檜原村観光協会には日の出町に関するお問い合わせのお電話をいただくことがあります。初めて聞く方にとっては間違えやすいのでしょうか…
さて、そんな檜原村をもっと知っていただくために、いつから、どうして、「ヒノハラ」と呼ぶようになったのか、その歴史を平成8年に檜原村教育委員会が発行した『郷土史檜原村』を参考にしながら書いてみたいと思います。
檜原一帯を勢力下とした豪族
奈良時代から平安時代にかけて、檜原村一帯は「橘郷(たちばなきょう)」と呼ばれていました。今も、檜原村役場の西側に橘橋という橋があります。南北秋川が合流する地点にある、とても大事な橋です。そしてその近くにはたちばな家というラーメン屋さんがあります。名残りみたいなものなのでしょうか。
この橘というのは、小岩地区の王子が城と呼ばれる場所に住んでいたとされる豪族、橘高安の名字です。檜原はこの橘という豪族の勢力下だったようです。王子が城は現在畑になっていますが、日当たりがよく広々としていて、とても住みやすい場所だったのだろうな、と思います。
村の変化と平山氏
平安時代末期に源氏と平家が争っていたころ、源氏に従って活躍した平山季重は檜原を含む土地を与えられました。平山季重は檜原村を気に入り本宿(檜原村役場や払沢の滝がある地区)に館をつくり、その守護寺として宝蔵寺を建立しました。宝蔵寺は、檜原の山で修行していた修験者(山伏)の拠り所ともなりました。
平山氏が檜原村で過ごすうちに村も変化していき、橘郷から「柏の庄」とか「椿の庄」と呼ばれるようになりました。鎌倉時代には柏や椿が生活用品や染め物の材料として需要があり、檜原の山中から柏の木の樹皮や椿の灰や木炭などを鎌倉へ運んでいたことから、そう呼ばれるようになったようです。庄とは豪族・貴族・社寺などが私的に領有した土地のことを言います。
山を崇める人々
大きな檜や杉・欅などが自生する険しい檜原の山は修験者だけではなく、一般の人々にも神聖な所として崇められていました。その神秘的な山、特に檜の葉には神が宿ると信じられていたそうです。現代になってからは伐採や植林などを行う林業が盛んなこともあり、きっと今の山とは様子の異なる姿だったのでしょう。でも、今も山を歩くと神秘的な景色に驚かされることがありますから、いつの時代も山には不思議な力が宿っているのだと思います。
昔、檜は「ヒ」と呼ばれ、「カシワ」とも読まれていました。原の字には平らな広い土地の意味の「ハラ」のほかに、大もと・つつしむ・みなもとなどの意味もあります。檜原とは、檜などの大木が生い茂り重なり合った山の神秘的な姿から「檜の大もと」、あるいは「山々に宿る神の前につつしむ」と感じられるようなところから、鎌倉時代の前後、全国を巡っていた修験者や武士が名付けたと思われる、とのことです。
…いかがでしょうか?歴史が苦手な私には少し難しい話ですが、時代ごとの文化や産業、人々の感じ方によってこの土地の呼び名が変わり、最終的には山の神秘性を感じて名付けられたのだろう、ということが『郷土史檜原村』には書かれています。檜がいっぱいあって広い土地だから、という単純なお話ではないのですね。
余談ですが、檜原の一般的なアクセントは「ひ↓の↑は↑ら↑」です。「動物」とか「満席」とかと同じです。たまに、「植物」や「矢印」のように「ひ↓の↑は↓ら↓」と言う方がいますが、檜原村の人はそう聞くと違和感を覚えるようです。
歴史ある地域である檜原村、遊びに来た際には山の中で深呼吸をして、昔の人々の思いや暮らしを想像してみてください。このコラムを読んでくださった方は、相当な檜原村ファンではないでしょうか。お読みいただきありがとうございました。
参考文献…檜原村文化財専門委員会(平成8年)『郷土史檜原村』檜原村教育委員会
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